調査観察会記録(2019年 7月度)
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生物多様性センター見学と寝屋川市 街並み散策

観察日 : 2019(令和元年)年7月26日(金) 時間: 10時00分~15時00分 

天 候 : 晴れ


コース : 寝屋川市駅→友呂岐緑地→菅原神社→茨田樋遺跡水辺公園→茨田堤碑→淀川河川公園(昼食)
     →生物多様性センター(施設見学)→京阪電車香里園駅にて解散

参加者 : 17名
「調査観察会概要」

駅構内で本日のコース及び見学地等の説明があり午後の目的地、生物多様性センターに向かって市街を歩き出す。駅前に架る橋を渡って友呂岐緑地、 ABC公園を経て菅原神社に到着。
コース説明 ねや川の梅花藻 ABC公園にて小休止
所々にある歴史と文化の道の誘導サイン
友呂岐緑地は、二十箇用水路 <寝屋川市北部の友呂岐6ヶ村{郡(こおり) ・木屋(こや) ・太間(たいま)・石津・田井・平池}の水田に水を供給する用水路で、後に大利(おおとし)・神田が利用するようになり、さらに下流の門真・大東市域の村々も利用するようになり、 6ヶ村以外の20ヶ村が利用する水路となっため、二十箇用水路と呼ばれる>と友呂岐悪水路 <ねや川は、川底が付近の土地よりも高い天井川で、堤防を超えて付近の村に簡単に水を引いたり排水したりすることが出来ない。高低差の無い土地では、近くの川に排水を放流すると大雨の際には逆流して洪水になる恐れがある、このため上流の村々では逆流しないように下流域で川に排水するための排水路>という目的や管理の異なる2本の水路が寝屋川に沿って流れていた。昭和 30 年代以降周辺の宅地化が進んで水田が少なくなり、両水路の利用も少なくなった 。そこで、この2本の水路を統合して友呂岐水路とし、廃止された水路を埋め立てて整備されたのが友呂岐緑地。市域の中央部をほぼ南北に貫く南北2.8キロメートル、面積4.5ヘクタールの公園で、サクラなどの樹木が植樹されている。
菅原神社の境内と社務所に居合わせた氏子さんによる説明
菅原神社は旧3ヶ村(池田中、池田川、池田下)の産土神で元の祭神は大国主命であった。江戸時代の寛永年間に菅原道真を祀るようになり1911 年(明治44)に葛原と点野の菅原神社が合祀、現在の神社名となる。 拝殿と幣殿が一体となった木造一間社流作り、屋根は柿葺き。市指定の有形文化財。
 難波高津宮は、食糧や生産物を供給する後背地を必要としていたので、 ヤマト王権は治水対策の目的も併せて 、河内平野の開発を企てた。そこで、草香江(くさかえ 河内国北部・現在の大阪府東部にあった湖、河内湖の古称 )に流入する淀川分流の流路安定を目的として、堤防を築造することとした。堤防は、当時の淀川分流の流路に沿って20km超にわたって築かれおり、当時、この地方を「 茨田 マンダ」といったので、「茨田堤」と呼ばれるようになった。
 茨田堤の痕跡は、河内平野北部を流れる古川沿いに現存しており日本最初の河川堤といわれる 。茨田堤の碑は太間(たいま)町の淀川堤防沿いにある。日本書紀によると、工事は古墳時代の仁徳天皇 11年に行われ、淀川の洪水を防ぐために計画され、難工事の連続で、工事の安全を願う人柱の話も伝わる。太間町の名は、堤が破れた「絶間」からきたといわれる。この辺りは、紀貫之の土佐日記に出てくる「わだの泊まり分かれ」の推定地一つ。
 碑はオランダ人技師、デ・レーケたちによる明治の淀川改修から百年になるのを記念して、昭和49年に建立された。
淀川
茨田堤の碑
生物多様性センター タナゴなど淡水魚の展示水槽
 生物多様性センター研修室で研究員の近藤さんから、センターの主な業務として 、豊かな自然環境や全てのいのちと共生する社会を構築し、多面的機能や恩恵をこれからも享受し続けるために、大阪の生物多様性の把握・評価・保全・普及や、持続可能な利用に向けた調査研究を行っているとの説明 。
 続いて土井さんから、森を活かして人の生活を守るグリーンインフラの活用について 、グレーインフラとグリーンインフラや大阪府における流木対策事業の効果検証調査の講演 、実験を交えた緑のダム機能として洪水緩和、渇水緩和の説明としてペットボトルのシャワーに よる人工降雨で裸地と草の浸透能の実験を水辺の植物園周辺にて行う。
 
研修室 雨量の計測 裸地(間伐が遅れた放置人工林)
草地(適度に間伐された人工林)
足跡図 淀川周辺今昔



現在↑

行程約7Km、梅雨明けの暑い一時を過ごす。
1961年(昭和36年)頃の田畑と丘陵
参考資料:寝屋川市HP、大阪府 環境農林水産総合研究所 水産技術及び生物多様性センター資料、Wikipedia

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