UP 2015.10.11 kita
シニア自然大学校環境科2015年10月野外活動
秋の歴史街道多田銀山と散策路コースを歩く
1.午前中 多田銀銅山めぐり+峠越え
川西能勢口よりバス(約30分)で猪名川町内へ移動、「多田銀銅山悠久の館」でボランティアガイドさん3名と合流、班ごとに案内、説明していただいた。銀銅山めぐりの後、峠を越えて12:50頃までに昼食場所である「道の駅いながわ」に全員無事到着。
コース:「多田銀銅山悠久の館」→代官所跡→高札場跡→代官所の門→金山彦神社→青木間歩→峠越え→「道の駅いながわ」
コース:「多田銀銅山悠久の館」→代官所跡→高札場跡→代官所の門→金山彦神社→青木間歩→峠越え→「道の駅いながわ」
※以下「猪名川町まち歩きマップ5」より抜粋
『多田銀銅山』の歴史は古く、奈良時代の東大寺大仏造立の際には、銅を献上したという言い伝えがあります。豊臣秀吉の時代には、「瓢箪間歩」「台所間歩」を中心に大坂城の財政を支えたといわれています。江戸時代の最盛期には、幕府直轄地として、代官所が置かれ、銀銅採掘の一大拠点となり、「銀山三千軒」といわれるほどの賑わいをみせました。猪名川町の銀山地区を中心に半径10数kmの広範囲に2000ヶ所以上の間歩(まぶ:鉱山の坑道)が存在しているといわれています。
『多田銀銅山』の歴史は古く、奈良時代の東大寺大仏造立の際には、銅を献上したという言い伝えがあります。豊臣秀吉の時代には、「瓢箪間歩」「台所間歩」を中心に大坂城の財政を支えたといわれています。江戸時代の最盛期には、幕府直轄地として、代官所が置かれ、銀銅採掘の一大拠点となり、「銀山三千軒」といわれるほどの賑わいをみせました。猪名川町の銀山地区を中心に半径10数kmの広範囲に2000ヶ所以上の間歩(まぶ:鉱山の坑道)が存在しているといわれています。
![]() 峠越えに備えて準備運動 |
![]() 多田銀銅山悠久の館(銀銅山の歴史を紹介) |
![]() 煉瓦積遺構(選鉱機械の台座、明治30年代) |
![]() 銀銅山代官所跡前での説明 |
![]() 移設された代官所の門(伝承) |
![]() 金山彦神社(鉱山の守り神) |
![]() 青木間歩(唯一内部見学可能な間歩)の入口 |
![]() 青木間歩の内部 |
![]() 青木間歩内部鉱床(天井部) |
![]() 間歩の水抜風通穴跡 |
![]() 道標 |
![]() 峠からの風景 |
2.午後 歴史街道散策
13:30に「道の駅いながわ」を出発、午前中と同様にボランティアガイドさん3名の案内で歴史街道散策路を歩きました。
コース:「道の駅いながわ」→姫ケ渕→対津(たいのつ)・木津・楊津(やないず)→天澤寺→猪名川町立ふるさと館
コース:「道の駅いながわ」→姫ケ渕→対津(たいのつ)・木津・楊津(やないず)→天澤寺→猪名川町立ふるさと館
※以下「猪名川町まち歩きマップ3」より抜粋
姫ケ渕:万膳地区には「佐保姫」という珍しい地名があり、その地名の由来にまつわる話が今に伝えられています。
対津(たいのつ)・楊津(やないづ):津とは港を意味し、水量は今よりも豊富であったようで、山から伐り出された材木の集積地として利用されていたようです。楊津は鎌倉時代後期頃からは使われなくなり、代わりに木津・対津が使われるようになりました。
天澤寺(てんたくじ):天平2年(730)東大寺の大仏建立等に尽くした行基が楊津院(ようしんいん)を建立したと伝えられています。楊津院は行基が近畿一円に建立したとされる四十九院の一つであり、その後身が天澤寺だと伝えられています。
猪名川町立ふるさと館:昭和58年に開館した町の歴史や産業、むかしの人々の暮らしを紹介する歴史民俗資料館。
姫ケ渕:万膳地区には「佐保姫」という珍しい地名があり、その地名の由来にまつわる話が今に伝えられています。
対津(たいのつ)・楊津(やないづ):津とは港を意味し、水量は今よりも豊富であったようで、山から伐り出された材木の集積地として利用されていたようです。楊津は鎌倉時代後期頃からは使われなくなり、代わりに木津・対津が使われるようになりました。
天澤寺(てんたくじ):天平2年(730)東大寺の大仏建立等に尽くした行基が楊津院(ようしんいん)を建立したと伝えられています。楊津院は行基が近畿一円に建立したとされる四十九院の一つであり、その後身が天澤寺だと伝えられています。
猪名川町立ふるさと館:昭和58年に開館した町の歴史や産業、むかしの人々の暮らしを紹介する歴史民俗資料館。
![]() 佐保姫伝説の説明を聞く |
![]() 歴史街道を歩く |
![]() 歴史街道に咲くコスモスの花 |
![]() 疲れたトンボが一休み |
![]() 天澤寺石灯篭 |
![]() 天澤寺 |
集合写真
![]() |